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野沢尚 著 「破線のマリス」に感じるマスコミの悪意と欺瞞

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  • 厨二の解釈は人それぞれです、思ってたのと違う可能性があります

 

野沢尚 著「破線のマリス

1997年出版・第43回江戸川乱歩賞 

破線のマリス (講談社文庫)

破線のマリス (講談社文庫)

 

 

~あらすじ~

遠藤瑤子は映像モンタージュ技術が巧みな映像編集者で、首都テレビのニュース番組「ナイン・トゥ・テン」の編集を担当している。瑤子は放映時間直前に映像編集を仕上げるため、上司のチェックをすり抜けて虚偽報道スレスレの編集映像が流れるという事態が常態化している。それに不満を感じる同僚や上司は多いが、その一方で瑤子の映像編集が番組の高視聴率を支えていた。

ある日、瑤子は郵政官僚の春名誠一から一本のビデオテープを渡される。ビデオテープの内容は、市民団体幹部で弁護士の吉村輝夫の転落死事故が、実は郵政省幹部の汚職事件に絡む計画的殺人であったことを告発する物であった。

破線のマリス - Wikipedia


物語のキーとなるのはビデオテープと映像、そこに隠されたマリス。
※マリスとは、英語で悪意を意味する。
破線とは、テレビ画面の走査線を暗示している(ブラウン管テレビ・今はもう無い)のでテレビに隠された悪意というものを描きたい作品であることが推測できる。


野沢尚は既に故人であり、彼の素晴らしい作品はもう発表されることは無い。
シナリオライターとして活躍した人であり、破線のマリス以降は作家としてテンションの高い作品を数々発表していた。
今作はいわゆるWho and why done it?(誰が何故?)というミステリーの王道、佳作と言える。

 

マスコミはいつでも人を見下している


今作のテーマは映像・テレビというものが含む悪意であり、それに翻弄され全てを失う女性・遠藤瑤子の視点をとおして物語は進む。
正直に言えば、小説の出来としてはそこそこといったところ。
自分にとって想像しがたい世界がテーマになっているためか、登場人物の中に理解できる行動を取る人がいない。

また、遠藤の心理、映像に対するスタンスは全く持って共感できないばかりかこちらの心にマリスを生むようなものだと思う。


今作の登場人物、テレビ側の人間たちは視聴者を情報を受け取るしかない弱者として認識し、自分たちを与える側に置いている。
つまり、見下している。

視聴者は弱者であり、情報に対して完全に受身、正しい情報処理を知らない人たちであるから、情報をいち早く掴んだ自分たちが正しい情報を教えてあげなければならない。
そうでないと彼らは判断を誤ってしまう……

これは野沢尚が仕掛けたマリスである。
完全に自分の推測では有るが、野沢氏はマスコミ業界で長く仕事をしていた。
その中で感じる違和感、悪意に対しての視聴者側のスタンスを守ろうとしていたように思う。

テレビ業界の抱えるマリスというものを遠藤というキャラクターを用意し表現する。
読者は遠藤に対して言いようの無い、腹立たしい気持ちを抱える。
そしてこの小説は不十分なものとして評価される。
ここまでが野沢氏の描きたいものだったと言ってしまうと大げさかもしれないが。

野沢氏が仕掛けた小説全体を巻き込むミステリー、これが本当の破線のマリスなのだと思える。

 

破線のマリスで描かれる本当のミステリー


マスコミ側の人間が主人公である以上、ほとんどの人は感情移入ができないだろう。
遠藤というキャラクターは映像加工のキレを評価される人物である。
つまりそのままの映像に他の、他者の意思を紛れ込ませること、何らかの方向性を示唆することの上手な人物だ。
それはゲーム的で刺激的、他者の心の方向性を支配するという楽しみに満ちたものかもしれない。
だが、今作でそれが描かれる時、我々はマスコミの悪意と欺瞞を感じ、遠藤に対しマスコミの代表者としての憎しみを感じる。

独裁者が自分の地位を守り強化するためにプロパガンダを続けることが脅威であることは過去の日本、現在の独裁国家を見ても明らかだ。
現在の日本はそのようなものはないと多くの人が判断している。

だが、今の日本の放送が誰かの意思を反映していないと言い切ることはできない。
むしろ、名もしれない誰かの意思、番組を作る立場の人間の意思が全く反映されていないことなどありえないのだ。
自分と同じような、匿名の誰かの意思、それは自由な議論の場で発せられるなら問題は無いが一方的に送り付けられてしまった場合、我々は何らかの感想を持ってしまう。

本来肯定すべきケース、それがあまりに美化されて語られるとき、逆に否定的な感想を持つ人もいる。
否定すべきケース、それがあまりに非道に描かれる場合、肯定の立場に立つ人もいるだろう。
本来それは、他者の意思など反映されない状態で決定されるべきで、操作された物を見た状態での意思決定ではいけないのだ。
どちらにしろ、それを判断材料にしているのだから。

今の我々は、自然な、無加工の情報を入手することはできない。
できるだけフラットな状態の物を選びとる努力をすることしかできない。

マスコミ自身が情報を作り出す、与える立場であるという嘘を正さない限り我々はいつでも取捨選択を迫られる。
日常に忙殺される我々が情報のプロに勝てるわけもなく嘘に染められていくのだ。

 

情報強者・弱者の線引き


数年前から、情弱などという言葉がネット界隈で使われている。
随分昔からのように思えるが、実際のところここ10年程度のものだと思う。
それ以前にも使われていたのかもしれないが、少なくとも今のような使われ方はしていなかったと思うのだが。

現在、スマホタブレット、PC、テレビ、ラジオ、数限りないメディアが存在し情報は溢れかえっている。
食事中にもネットニュースをチェックできるし移動中もそうだ。
日夜情報にさらされ、それをいち早くキャッチしたものは強者となる。
弱者は知らないことを馬鹿にされ、自身も強者になるために情報をいれ続け、知らない人を探す。


破線のマリスで描かれた情報というものの怖さ、一方的な思い込みで情報を扱うことの危険性は今も続いている。
むしろ一個人が情報操作をすることも容易になった。
情報に毒、マリスをこめ発信することを止めることはできないのだ。


破線のマリスは小説としての完成度は名作と呼ぶには足りない。
だが、業界を知る人間が描いたリアリティはあるのかもしれない。
すでに20年程前の小説ではあるが、今も野沢尚が表現した破線のマリスは消えていない。



映像作品もある。
陣内孝則演じる麻生はなかなか狂気じみて不気味だ。 

破線のマリス [DVD]

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