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厨二患者の音楽映像文学についての記録

私が好きな音楽・映画・文学の記録

柳 広司 著「ジョーカーゲーム」 敗戦国日本の怪物

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当ブログの注意点

  • 映画や小説の場合、ネタバレを含むことがあります
  • その作品を愛している方の気分を害することが書かれている場合があります
  • 厨二の解釈は人それぞれです、思ってたのと違う可能性があります

 

柳 広司 著「ジョーカーゲーム」 


発行:2008年

第30回(2009年) 吉川英治文学新人賞受賞
第62回(2009年) 日本推理作家協会賞(長編および連作短編集部門) 受賞


~内容紹介~
結城中佐の発案で陸軍内に極秘裏に設立されたスパイ養成学校“D機関”。「死ぬな、殺すな、とらわれるな」。この戒律を若き精鋭達に叩き込み、軍隊組織の信条を真っ向から否定する“D機関”の存在は、当然、猛反発を招いた。だが、頭脳明晰、実行力でも群を抜く結城は、魔術師の如き手さばきで諜報戦の成果を上げてゆく…。吉川英治文学新人賞日本推理作家協会賞に輝く究極のスパイ・ミステリー。
 ※amazon紹介文より

 

ジョーカー・ゲーム (角川文庫)

ジョーカー・ゲーム (角川文庫)

 

 
戦時中の日本陸軍内で立ち上げられた「D機関」、魔王と呼ばれる結城中佐を軸に語られるスパイ、ミステリー小説。
戦争小説にありがちな悲惨さや悲しみを排除し、無機質で空虚なスパイ活動を描いている。戦争小説で描かれる逃れられない死への恐怖や悲しみを描かずあくまでもエンターテインメントとしてのミステリー小説として完成された作品だ。

各章独立したストーリーが描かれており、タイトルが気になった章から読んでも問題の無い作りとなっている。
いずれも怪物のようなスパイが主役であり、時おり異物として描かれる軍人や、陸軍将校がスパイスとしての役割を担っている。

戦争小説におけるリアリティとは?


日本は言わずもがな敗戦国である。
世界で唯一原子爆弾を落とされた国、沖縄での絶望的な本土戦、日本各地、主要都市を襲った爆弾。
欲しがりません勝つまではを押し付けられた国民は鬼畜米英のプロパガンダの元、勝利を信じさせられた。特攻の悲しみは癒されるものではなく、広島、長崎は地獄を味わった。

当時の世界では類を見ないほど自国を蹂躙された日本は、戦争をエンターテインメントにすることを避けねばならない。
それは日本の宿命として存在し続けるだろう。


村上龍は戦争を否定しなかった。それは一般的な日本人感覚としては受け入れがたい考えだろう。彼は日本人は戦争を望み、一種の狂乱状態にあったとした。(注:過去のエッセイの記憶なので表現は違っているかもしれない)
一種の狂乱の中に置かれた人の精神状態を推し量ることはできない。
我々は想像できる悲しみだけをクローズアップするしかないのだ。


戦争はあってはならない。
日本は大東亜戦争を肯定してはいけない。
だが、今の日本では多くの人が死んでいく映画も、戦争をエンターテインメントとして描く映画も氾濫している。映画の中では人の命は軽い。
そしてそういった映画は戦勝国のアメリカからやってくる。


戦争におけるリアリティを描く為には、それを肯定し利益を得た人間も描かれねばならない。戦争が続くことで自分の利益が最大化するものは存在した。
悲しみのドラマばかりを描くことは戦争を美化することであり、敗戦国たる日本が向き合うべき戦争のリアリティを削ぐことになる。
戦争で利益を得る人間を悪者的に描くのではなく、当時の日本人の当たり前と描くことこそが重要なのだと思う。


日本は徹底的な批判精神を持ち、戦争の全てを描くべきだ。
戦争を知る人たちは年々減っていく。リアリティは失われる。
エンターテインメントとしての戦争を描く為には徹底的な批判精神が必要となる。

ジョーカーゲームにおける戦争のリアリティ


ジョーカーゲームにおける戦争はどのように描かれるのか。
結城中佐の目から見た陸軍にその一端がある。
潔く死ぬことが美徳であり、日本軍はそうでなければならないという意味の無い思想を抱えた将校や軍人たち。
結城中佐はそれに対して「死ぬな、殺すな」をD機関の思想の中心に据える。

無駄な死は回りまわって日本軍へのダメージとなる、人は簡単に死ぬべきではない。
戦争において一番重要なものは人である。
特に現代戦と違い、直接人と人とが交錯する当時の戦場では死は避けられず、重要であるはずの資源、人は消費財として消耗されていく。

少なくとも今作では描かれていないが、結城は経済観念の優れた指揮官だ。
限りのある人という資源を有効活用するためにスパイ機関を設立し、彼ら自身に死ぬことは無駄だと伝える。
スパイである彼らの活動により、日本軍がこれ以上無駄に人という資源を消費しないことを第一の目的としたのではないだろうか。

利益を最大化するためには障害となるリスク、失敗した場合に考えられる損害をシミュレーションをする必要がある。
D機関はそういったマイナス面を引き受けるべき組織として重要な存在だ。
だが、当時の日本では敗戦をシミュレーションすることはご法度であった。


ジョーカーゲームにおける戦争のリアリティ、それは有無を言わさず人を死に向かわせる組織が実際に存在したことをD機関を通して描いたことにある。
D機関はいわば現在の我々だ。
戦争、争いを経済活動に変えると分かりやすいが、仕事においてはマイナス面をシミュレーションすることは当然だ。

異物としてD機関を描くことで、むしろ陸軍将校の異常さが際立つ。
日本の敗戦は必然であるが、それは外的要因ではなくむしろ経済的、政治的にあまりに無策であったということに気付かされるのだ。

 

スパイという非リアリティ


ところで、スパイはリアリティの無い存在だ。
スパイはそれと気付かれた瞬間に存在価値を無くす。

今の我々は戦争も、スパイもリアリティの無いものとして受け取る。
だからこそ、この小説はエンターテインメントとしてしっかりと成り立つのだ。
そして、物語で描かれる軍隊をステレオタイプにすることで根幹にリアリティを持たせている。


戦争という非日常の中で存在感を消し、日常を生きるスパイという存在。
死ぬな、殺すなという日本軍隊の大前提さえ簡単に覆す魔王の徹底した哲学。


この小説を語るとき、矛盾した表現をすることが多くなる。
それは、ジョーカーゲームが矛盾を描いた小説だからであると思う。
戦争は死ぬことを前提としているが、スパイは死んではならない。
スパイは日常に溶け込む違和感の無い存在であるが、同時にエンターテインメント性も含んでいる。


優秀なスパイがいたとしても敗戦は逃れられないというエンターテインメントに反する物語、これがジョーカーゲームの面白さだと思う。
ハリウッド的エンターテインメント作品なら、スパイが戦局を変えてしまうだろうが今作のスパイはそういった行動を排除した存在なのがより一層面白い。



 

野沢尚 著 「破線のマリス」に感じるマスコミの悪意と欺瞞

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野沢尚 著「破線のマリス

1997年出版・第43回江戸川乱歩賞 

破線のマリス (講談社文庫)

破線のマリス (講談社文庫)

 

 

~あらすじ~

遠藤瑤子は映像モンタージュ技術が巧みな映像編集者で、首都テレビのニュース番組「ナイン・トゥ・テン」の編集を担当している。瑤子は放映時間直前に映像編集を仕上げるため、上司のチェックをすり抜けて虚偽報道スレスレの編集映像が流れるという事態が常態化している。それに不満を感じる同僚や上司は多いが、その一方で瑤子の映像編集が番組の高視聴率を支えていた。

ある日、瑤子は郵政官僚の春名誠一から一本のビデオテープを渡される。ビデオテープの内容は、市民団体幹部で弁護士の吉村輝夫の転落死事故が、実は郵政省幹部の汚職事件に絡む計画的殺人であったことを告発する物であった。

破線のマリス - Wikipedia


物語のキーとなるのはビデオテープと映像、そこに隠されたマリス。
※マリスとは、英語で悪意を意味する。
破線とは、テレビ画面の走査線を暗示している(ブラウン管テレビ・今はもう無い)のでテレビに隠された悪意というものを描きたい作品であることが推測できる。


野沢尚は既に故人であり、彼の素晴らしい作品はもう発表されることは無い。
シナリオライターとして活躍した人であり、破線のマリス以降は作家としてテンションの高い作品を数々発表していた。
今作はいわゆるWho and why done it?(誰が何故?)というミステリーの王道、佳作と言える。

 

マスコミはいつでも人を見下している


今作のテーマは映像・テレビというものが含む悪意であり、それに翻弄され全てを失う女性・遠藤瑤子の視点をとおして物語は進む。
正直に言えば、小説の出来としてはそこそこといったところ。
自分にとって想像しがたい世界がテーマになっているためか、登場人物の中に理解できる行動を取る人がいない。

また、遠藤の心理、映像に対するスタンスは全く持って共感できないばかりかこちらの心にマリスを生むようなものだと思う。


今作の登場人物、テレビ側の人間たちは視聴者を情報を受け取るしかない弱者として認識し、自分たちを与える側に置いている。
つまり、見下している。

視聴者は弱者であり、情報に対して完全に受身、正しい情報処理を知らない人たちであるから、情報をいち早く掴んだ自分たちが正しい情報を教えてあげなければならない。
そうでないと彼らは判断を誤ってしまう……

これは野沢尚が仕掛けたマリスである。
完全に自分の推測では有るが、野沢氏はマスコミ業界で長く仕事をしていた。
その中で感じる違和感、悪意に対しての視聴者側のスタンスを守ろうとしていたように思う。

テレビ業界の抱えるマリスというものを遠藤というキャラクターを用意し表現する。
読者は遠藤に対して言いようの無い、腹立たしい気持ちを抱える。
そしてこの小説は不十分なものとして評価される。
ここまでが野沢氏の描きたいものだったと言ってしまうと大げさかもしれないが。

野沢氏が仕掛けた小説全体を巻き込むミステリー、これが本当の破線のマリスなのだと思える。

 

破線のマリスで描かれる本当のミステリー


マスコミ側の人間が主人公である以上、ほとんどの人は感情移入ができないだろう。
遠藤というキャラクターは映像加工のキレを評価される人物である。
つまりそのままの映像に他の、他者の意思を紛れ込ませること、何らかの方向性を示唆することの上手な人物だ。
それはゲーム的で刺激的、他者の心の方向性を支配するという楽しみに満ちたものかもしれない。
だが、今作でそれが描かれる時、我々はマスコミの悪意と欺瞞を感じ、遠藤に対しマスコミの代表者としての憎しみを感じる。

独裁者が自分の地位を守り強化するためにプロパガンダを続けることが脅威であることは過去の日本、現在の独裁国家を見ても明らかだ。
現在の日本はそのようなものはないと多くの人が判断している。

だが、今の日本の放送が誰かの意思を反映していないと言い切ることはできない。
むしろ、名もしれない誰かの意思、番組を作る立場の人間の意思が全く反映されていないことなどありえないのだ。
自分と同じような、匿名の誰かの意思、それは自由な議論の場で発せられるなら問題は無いが一方的に送り付けられてしまった場合、我々は何らかの感想を持ってしまう。

本来肯定すべきケース、それがあまりに美化されて語られるとき、逆に否定的な感想を持つ人もいる。
否定すべきケース、それがあまりに非道に描かれる場合、肯定の立場に立つ人もいるだろう。
本来それは、他者の意思など反映されない状態で決定されるべきで、操作された物を見た状態での意思決定ではいけないのだ。
どちらにしろ、それを判断材料にしているのだから。

今の我々は、自然な、無加工の情報を入手することはできない。
できるだけフラットな状態の物を選びとる努力をすることしかできない。

マスコミ自身が情報を作り出す、与える立場であるという嘘を正さない限り我々はいつでも取捨選択を迫られる。
日常に忙殺される我々が情報のプロに勝てるわけもなく嘘に染められていくのだ。

 

情報強者・弱者の線引き


数年前から、情弱などという言葉がネット界隈で使われている。
随分昔からのように思えるが、実際のところここ10年程度のものだと思う。
それ以前にも使われていたのかもしれないが、少なくとも今のような使われ方はしていなかったと思うのだが。

現在、スマホタブレット、PC、テレビ、ラジオ、数限りないメディアが存在し情報は溢れかえっている。
食事中にもネットニュースをチェックできるし移動中もそうだ。
日夜情報にさらされ、それをいち早くキャッチしたものは強者となる。
弱者は知らないことを馬鹿にされ、自身も強者になるために情報をいれ続け、知らない人を探す。


破線のマリスで描かれた情報というものの怖さ、一方的な思い込みで情報を扱うことの危険性は今も続いている。
むしろ一個人が情報操作をすることも容易になった。
情報に毒、マリスをこめ発信することを止めることはできないのだ。


破線のマリスは小説としての完成度は名作と呼ぶには足りない。
だが、業界を知る人間が描いたリアリティはあるのかもしれない。
すでに20年程前の小説ではあるが、今も野沢尚が表現した破線のマリスは消えていない。



映像作品もある。
陣内孝則演じる麻生はなかなか狂気じみて不気味だ。 

破線のマリス [DVD]

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1978年版「ゾンビ」~ Dawn of the Dead~ 乾いた風に吹かれてゾンビがやってくる

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今回はホラー映画、ゾンビ物を取り上げています。
スプラッタ表現、ホラー描写が苦手な方は読まないでください。
リンク先で怖い思いをしても責任は取れません。

今回は映画の大事な部分のネタバレがあります。
未見の方は読まないでください。絶対に見ないし、という方はご覧ください。

 

ジョージ・A・ロメロ監督作品「ZOMBIE」


ジョージ・A・ロメロ(以下ロメロと略)はカルト的なファンを持つ映画監督である。
1968年に公開された「ナイト・オブ・ザ・リビングデッド」は現在までに通じるゾンビのテンプレートを作り出したと言われる名作。

今回は後にロメロ3部作と言われるリビングデッドシリーズ(現在では5作)の第二作である「ゾンビ」(原題はドーン・オブ・ザ・デッド)について語りたいと思う。 

 

 

1978年に公開されたこの映画は、後のゾンビ映画に多大な影響を与え、今に至るまでロメロをカリスマとするきっかけにもなった。

ナイト~まで、映画におけるゾンビはブードゥーの影響が濃い、呪術的な存在として扱われていた。
魔術師の使役するモンスターとしての役回りである。
元祖として語られるのが、怪優「ベラ・ルゴシ」のホワイトゾンビであろう。

 

恐怖城 ホワイト・ゾンビ [DVD]

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自分自身、ナイト~以前のゾンビ映画はほぼ未見なので偉そうには語れないが、ロメロ3部作が無ければゾンビのテンプレは生まれていない可能性があると思っている。
そうなると、ウォーキングデッドだってバイオハザードだって、デッドライジングだって生まれていないだろう。
エンターテインメントとしてのゾンビという存在は、ロメロという才能によって生み出されたと言っても過言では無い。

 

ホラー映画界のカルト的な才能が集まった名作


今作にはロメロを中心に、ホラー映画界では有名な人物が参加している。
映画監督としても有名なダリオアルジェントが音響効果、特殊メイクはトムサヴィーニ(俳優としても出演)、音楽はゴブリンなどのそうそうたるメンツだ。

映画全体に横たわる暗く乾いた雰囲気、生ける屍となった人間たちの悲しくも恐ろしい姿、恐怖を演出する音の数々、不穏な空気感を表現する音楽、その全てが絶妙なバランスで成り立っている。

それぞれの才能が機能し影響しあった結果としての名作と言える。

 

理由のない恐怖が世界を覆うとき


リビングデッドであるゾンビはロメロ3部作でも出現の原因は語られていない。
今作の冒頭、テレビの画面が写っているが、隕石の影響かと論じられるくらいではっきりとした理由は解明されないままだ。

ここにこそゾンビの恐怖があるのだと思う。

ある日突然、死者が蘇る。人々はなぜだろうと考えるが理由は分からない。
隣人が、愛する人が、友人が、次々にゾンビになっていく。
死の訪れは恐怖からの開放ではない、生ける者にとっての新たな恐怖の始まりに過ぎないのだ。

死した者をあらためて殺さねばならない、それは生きたいと願う者たちの希望すら奪いかねない行為だ。
自分がもし死んだら愛する人を襲うかもしれない、そして自分が殺したゾンビと同じ怪物として殺されなければならない。
耐え難い恐怖がそこにある。


ゾンビはやがて世界を覆い尽くす。
ナイト~で生まれた死者はゾンビで世界を闊歩し始め、昼間の支配者になる。
ロメロ3部作とはそれを描いた作品である。

原題をそのまま記述すると分かりやすい。

Night of the Living Dead  生ける死者たちの夜
Dawn of the Dead  生ける死者たちの夜明け
Day of the Dead  生ける死者たちの日

ゾンビの発生、拡大、支配までが描かれている。

ゾンビたちは生ける者たちを駆逐し、新たな世界の支配者として君臨する。
目的も、理由もない、ただ生ける我々を襲うのだ。

そもそもゾンビには食べる必要が無い。
なぜ食べるのか、映画で語られるのはゾンビになることで食欲のみが残るからとされている。なぜそうなるかの理由はもちろん分からない。

ゾンビが恐怖なのは、なぜ生まれ、なぜ人を襲い食べるのか、何が目的なのか、全てが謎であるからだ。
宇宙人は人間を滅ぼし地球を自分のものにしたい、モンスターは生きるために人を襲い食べる、全てに理由はある。
だが、ゾンビに理由は無い。

そして、理由のない恐怖が世界を覆うのを画面を通して我々は見せつけられる。

ロメロが描く恐怖の本質


ゾンビは人を襲う。
人はそこから逃げることしかできない。

ロメロ3部作、というよりもロメロゾンビで描かれるのはそれだけではない。
人のリアルこそがロメロ映画の恐怖の本質なのだ。

今作の見せ場、ショッピングモールでの平穏な生活がゾンビによって破られるシーンがまさにリアルな人間を描いている。

ゾンビによって平穏を奪われたとあるグループが今作の主役だ。
彼らは逃亡の途中、ショッピングモールに立ち寄りそこを拠点とすることにした。
一時ながら平穏を取り戻したかに思えた彼らの生活は、同じ人間によって破られる。

モールを自分たちの物にすべく襲撃するならず者たちにより、バリケードは破られゾンビは侵入を始める。
戦いながら彼らは平穏が破られ、戻らないことを知る。
そして残り少ない燃料のヘリコプターで目的地のない逃亡を始めるのだ。

主人公たちは、いずれ自分たちが死ぬかもしれないことを知りながらも文明の香りが残るモールに逃げ込んだ。
そこで彼らはファッションを楽しみ、食事を楽しみ、レジャーを楽しむ。
どこに逃げてもゾンビがいる日常を忘れる為に。

しかし、それを我がものにしたいならず者たち、つまり同じ人間にそれは破られる。

人間は自分たちが作り上げた文明にすがることで現実逃避する。
自分たち以外の人間が幸せであることを許さない人間により希望は打ち砕かれる。

これが世界だ。
リアルな人間模様がそこに描かれている。

世界はいつでも危ういバランスの上に成り立っている。

富める国を許さない国、指導者がいる。
成功した人を妬む人たちがいる。

人は人を許さず、妬み、足を引っ張りたいのだ。
自分の境遇が不幸せであればあるほどに。


ロメロが描くのは人間だ。
ゾンビも含む人類そのもののカルマと言ってもいい。

ゾンビは死しても人を食う、人は外敵にさらされても同じ種族で争う。
動かしようのない人間の本質こそが恐怖の源なのである。

 

ゾンビに流れる不穏で乾いた空気感


最後に今作の音楽についても語りたい。
ゴブリンというイタリアのプログレッシブバンドがヨーロッパ公開版の音楽を担当しているのだが、彼らの表現する世界観が素晴らしい。

  

ゾンビ(サントラ)

ゾンビ(サントラ)

 

  
不穏な空気感を素晴らしく高めてくれるサウンドが心地よい。
プログレというジャンルも相まって好き嫌いは別れるだろうが少なくともゾンビという映画にはしっかりとマッチしている。

なかなかにテクニカルでお洒落なバンドだと思うので合わせてオススメしておく。


村上龍 著「コインロッカーベイビーズ」の規格外の疾走感

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村上龍 著・コインロッカーベイビーズ


単行本 1980年10月28日発行
文庫本 1984年1月15日発行

~紹介文~

コインロッカーを胎内としてこの世に生まれ出たキクとハシ。罪の子ふたりの心に渦まく愛と憎悪。廃墟と化した東京の上空に、華やかなステージに、そして南海の暗い海底に強烈な破壊のエネルギーがほとばしる。巨大な鰐を飼う美少女アネモネの願いは?鮮烈なイメージで織りなす近未来小説の大きな序章。
 ※Amazon紹介文より


 

コインロッカー・ベイビーズ(上) (講談社文庫)

コインロッカー・ベイビーズ(上) (講談社文庫)

 
コインロッカー・ベイビーズ(下) (講談社文庫)

コインロッカー・ベイビーズ(下) (講談社文庫)

 

 

 第3回野間文芸新人賞受賞作品。

 

文学という括りでは語れない村上龍の魅力


村上龍という作家をご存知だろうか?
最近ではテレビ東京カンブリア宮殿のMCとして認識している人も多いと思う。

1976年、デビュー作の「限りなく透明に近いブルー」で群像新人文学賞芥川賞受賞という鮮烈な登場を果たした作家である。
サイケデリックとも言える世界観を構築、文章というよりも詩に近い強烈な個性を放つ異彩な作家であった。


一読でもしたことのある人なら同意してくれると思うが、村上龍の文体は独特という言葉では言い表せないモノを含んでいる。
句読点無しに数行を一気に書き進めるテンションの高さ、登場人物の語り口の異常さ、サイバーパンクにも通じるような独特の物語世界。

文字の羅列にしか見えず、読み進めるのを躊躇するようなページを目の当たりにし、それを実際に読み進めていくごとに自分が引き込まれていくのが分かる。
文学のルールを無視しているとしか思えないその文体は、好き嫌いのはっきりする作家という印象を決定づけるものだと思える。

おそらく、村上龍には文学というものが違って見えているのだろう。
自身から生まれでるものを書き綴り、そこに美しい文章という既存のルールは当てはまっていない。
一種プログラムの配列のような普通の人には読みにくいだけ、でもそれが好きな人には堪えがたい美しさを感じる文章だと思うのだ。


それは素晴らしい音楽を体験した時のような、既存のルールに縛られない美しさを感じた瞬間のような、そんな体験をさせてくれる作家だ。

 

グルーヴと疾走感・コインロッカーベイビーズ

 
この作品は、そんな村上龍の文学性が存分に発揮された名作だ。
ルール通りの名作では無い、新しいルールを作り上げた作品だと言えると思う。

日本を舞台にしながらも現実とはズレのある世界、コインロッカーに遺棄された二人の子供を軸に描かれる物語は音楽を感じさせながら展開していくのだが、クライマックスで感じるものは無の世界だ。

この物語はキクとハシというコインロッカーに遺棄された子供、二ヴァとアネモネというその2人を取り巻く女性が中心に描かれる。

二人の子供は善良な里親に引き取られ、平等に育てられる。
そんな生活の中、キクとハシは、成長するにつれてある音の存在に気付く。
成長の中で二人は異なる世界へと脚を踏み入れ、それぞれの価値観に従い行動をしていく。その中でキクは暴力衝動を昇華させる手段としてダチュラを選び、ハシはその音を求め音楽を選ぶ。
二人ともある音を求めながら違う行動を取り続け、音に気づいたキクが辿り着いたカタルシスの中、ハシもその音に辿り着く。
そして新しい音楽が始まる。

キクは世界をリセットし、ハシは新しい音楽を始める。
破壊と救済が唐突に訪れ、読者である我々はそのどこにも存在しない。
無の世界だ。
とても美しい。



この物語は全体を通して暗く重いグルーヴに支配されている。
不穏な空気、暴力、閉塞感に支配されたヘヴィなグルーヴだ。
それが、キクがカタルシスに向かうに連れ形容しがたい疾走感、ある種の爽やかな空気に包まれていく。


既存の価値観も、音楽も、ファッションも無意味。
全てが壊れてしまうことを知った後の諦めにも似た奇妙な気持ち。
それを爽やかと表現しても良いのなら。


コインロッカーベイビーズは、重苦しい、閉塞感に満ちた世界をぶち壊し救済するためのカタルシスを描いた作品なのだ。
全てが壊れたのなら、新しい何かが生まれる。物語は唐突に終わり生まれでる何かは語られることはない。それは新しい物語だからだ。

 

物語で音楽を鳴らす村上龍という作家の特異性


繰り返しになるが、村上龍という作家は文学の枠では語りきれない。
音楽とセットで語られる作家はいても音楽を鳴らす作家はいない。
キクとハシは村上龍であり、閉塞感を感じ何かを壊したいと感じている我々だ。

重く暗い日常の閉塞感というグルーヴも決して悪くはない。
だが、我々は疾走感も等しく求めているはずだ。

この物語の軸となる音の正体はここでは語らない。
無となった世界でも鳴らされるその音、原始的なリズムは我々が感じられる唯一共通の疾走感かもしれない。

どうか、その音を感じて欲しい。
我々は飼い慣らされる為に生きているのではない、平坦な人生を歩みながらも体内に存在する疾走感と共に生きているのだ。


世界の終わりが訪れたとして、そこに音楽はある。
我々もコインロッカーベイビーズだからだ。




 
世界の終わりには疾走感がある。
この曲のような。 

世界の終わり

世界の終わり

 

  

 

cult grass stars

cult grass stars

 

 

 



 

 

筒井康隆著 「旅のラゴス」を読むと何故だかいつもザワザワした気分になる

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筒井康隆著 旅のラゴス


発売日:1994/3/1

~紹介分より~
北から南へ、そして南から北へ。突然高度な文明を失った代償として、人びとが超能力を獲得しだした「この世界」で、ひたすら旅を続ける男ラゴス。集団転移、壁抜けなどの体験を繰り返し、二度も奴隷の身に落とされながら、生涯をかけて旅をするラゴスの目的は何か? 異空間と異時間がクロスする不思議な物語世界に人間の一生と文明の消長をかっちりと構築した爽快な連作長編。
amazon商品紹介文より~

 

旅のラゴス (新潮文庫)

旅のラゴス (新潮文庫)

 

 

 発売日は今から約20年前。
去年辺りからか突然ちょっとした話題になっていたのでビックリした記憶がある。

俺が読んだのは20代前半頃、発売からそれほど日は経っていなかったと思うが定かではない。元々ファンタジーが好きで色々な本を読み漁っていた頃に出会った一冊だ。

今でもたまに、というか購入してから年に一度、数年に一度、などとふと読み返したくなることのある本だ。通しで全部読むのは10数回、とあるエピソードだけを読むのまで含めたら30回では足りないだろうと思う。

回数だけなら人生で一番読んだ本だ。
理由は分からないのだが、不思議な魅力のある一冊なのである。

 

旅のラゴスの読後感は人生について考えた後の気分に似ている


夜中に人生について考えて、なんだか胸が締め付けられるような気分になることは無いだろうか? 涙が出る手前、焦燥感、上手く言い表す言葉が見つからないが。

ザワザワしてくる感覚とでも言おうか。
何かを成し遂げたい、何かを見つけたい、人生の意味、目的をまだ探している自分に気付いた時、そして死ぬまでにそれを見つけて追いかけている人生で有るか不安になる時。俺はいつも胸を締め付けられ、ザワザワとした気分になるのだ。


日々の仕事、お金、老後、人生はいつもリアルだ。
そこには夢や希望を差し挟む余地は無い。
だから俺たちはリアルの合間に夢や希望を挟み込み、自分の人生は充実していると錯覚させている。

将来の夢であっても、先人たちが積み上げてきた社会をベースにしたモノでしかない。
自由な発想、奇想天外なアイディアもそうだ、世界というパッケージの中で許された範囲を逸脱することは無い。

今、世界はどんどん狭まっている。
隣の国で何が起きているか、海の向こうで戦争が始まっても、経済危機が起きても、新しい商品が開発されても、俺たちはほぼリアルタイムで知ることができる。

夢や希望はどんどん現実に侵食され、決められた範囲の自由を楽しむしか無いのだ。


これからも世界は小さくなり続け、情報の処理速度は上がっていくだろう。
子供たちは知りすぎた状態で夢を描くしかなくなるのだ。


俺は人生について考えるとき、閉塞感を味わっている。
面白い人生とは自己満足である。それは十分に理解できる年齢になった。
だが、時代が違えばもっと違う生き方が出来たはずだ、世界が謎のままなら発想は豊かになったはずだ。

旅のラゴスを読んでいつも思うのは、世界は広く、俺が知ることは小さなもの、だがそこに最大の喜びがあるのだろうと言うことだ。
知ることこそ、人生の大きな喜びである。

ラゴスは学究の徒として世界を見る。
様々な経験、出会いから得る知識、それがラゴスというフィルターを通して俺に伝わってくるのだ。
この本を読んでいる間、俺はラゴスを通して世界を知ることができる。
奇想天外な人間、壮絶な体験、なだれ込む知識がどれほど喜びに満ちているかを追体験することができるのだ。

本来リアルな自分の人生でこそ味わいたい喜びに満ちた経験、それができない閉塞感を打ち破り、憧れを抱かせる。
読後に残るのはラゴスという一人の男の幸せに満ちた人生への憧れと、閉塞感を味わう自分の如何ともしがたい現状への無力感。

そう、本の中で打ち破ったはずの閉塞感は、読後にまたリアルなものとして俺の中に存在しているのだ。
俺は世界についてもっと知りたいと思っている。
ラゴスも知りたいと願った、世界は広いのか、狭いのか分からないまま旅を続けた。
結果、世界は自分が知るには広く、知識は無限であることを知ったのだ。

だが俺はすでに知ってしまっている。
世界の事柄を、歴史を、人々を知ることはできない、それどころかほとんどのことを知らずに死んでいくだろうことを。


きっと、俺はラゴスがそれを知らずに旅を続けられたことを羨ましいと思っているのだろう。すでに知っている俺は閉塞感と共に生き、知らずに生きているラゴスは最後まで何かを知ろうと生きることができた。


最後の旅、ラゴスは目的を果たしたのか、それとも途上のまま終わったのか。
それは誰にも分からない。

だが、それは幸せに満ちたものだっただろう。

 

俺の人生は誰かの人生の途中であり、世界のほんの一部だ


旅のラゴスは一人の男の人生と、奇想天外な世界との関わりを描いた名作である。
そこにはドラゴンはいないし、救うべき姫もいない。
ただ、旅を続ける男の目を通してその世界を追体験するのみだ。

ラゴスはシニカルな口調で世界を見続けている。
人生に深く刻まれた少女を思い、家族を思い、貪欲な知識欲を持って生きている。


若年であるラゴスは、いつしか老年となり、やがて戻ることのない旅に出る。
読み進めていくうちに、読者はきっとラゴスとともに世界を生きている錯覚に陥るだろう。

その世界でラゴスと共に旅をするのか、彼が訪れた酒場で一夜会話をするのか、どんな関わりになるのかは分からない。
だが、旅のラゴスという小説は読者に何らかの役割を与えることだろう。
読後に訪れる気分はどんなものだろうか。


俺はそれも知りたいと思っている。

 

旅のラゴスを読むと何故か頭に流れる一曲


小説を読んでいると何故か音楽が流れてくることがある。
旅のラゴスを読むといつも流れてくるのはこれだ。

 

The 7th Blues

The 7th Blues

 


 
奇しくも旅のラゴスと同じ年に発表されたアルバムの中の一曲。
このアルバムはそれまでのB'zのイメージとは異なり、バンドのグルーヴ感をそのままパッケージしたような曲が多く含まれている。
中でもお気に入りで、旅のラゴスのイメージに重なるのがこの曲だ。

Queen of Madrid」

とある街に住む女性を主人公にした一曲。
旅の途中で立ち寄った人々をシニカルな目線で語るような詩が印象的だ。


そこでは旅人に対して、

通り過ぎていくだけの人たち あんたらいつも
それでもいい 羽を伸ばしておくれよ

と語っている。


旅人はいずれここからまた違う場所へと旅立つもので、自分はそこに生き続ける存在であることを十分に認識している。

主人公は旅人の人生の一瞬で、旅人は主人公が人生の一瞬。
それぞれが少しだけ重なり合うだけの人たち、それでも自分はここに居るし他の人はまた、どこかへと行くのだろう。


そうして俺たちは人生を生きている。
足りることのない人生を。

旅のラゴス、ザワザワした気持ちになりたい、人生に閉塞感を感じている人に是非一読して欲しい名作だ。
あなたもきっと、不思議な感覚に包まれることだろう。